Blog by So-Cal Connection

フォトグラファーcnt’d ・・・そして、文化の違い?

 

 

 

 

 

 

 

 

So-Cal Connection <Verse 2>

さて、写真家となってしまうと、プレス用のトレードショットと呼ばれる写真も撮らなくてはいけなくなってしまったので、慌ててノーマンのパワーパックとマルチプル・ストロボのセットをローンで買い揃え、友達を被写体に練習を始めました。それから、東京に戻っていた田島さんに毎晩のように電話で質問をしたり、仕事仲間だったヌードのカメラマンのスタジオを訪ね、色々とトリックを教えてもらったりしました。

一度だけ、島田さんという、日本の人間国宝と称される人達のポートレートを撮っておられた写真家のアシスタントもやりました。その時の被写体は三船敏郎とプリシラ・プレスリーで、丸八ふとんのコマーシャルでした。こうやって、わずか2ヶ月位の間で、スタジオでも写真が撮れるようにと言うか、写真が撮れるように装うことが出来るようになった訳です。

波に乗っている時は、全てが旨く行くもので、デビット・リンドレーのバンドである、エルラヨエックスの専属フォトグラファーとして、フォトパスを首からかけて、LA周辺のコンサートには全て行くようになりました。すると、その会場会場で、違うバンドのマネージャーとかに出会い、彼らのバンドの写真を頼まれるようになりました。

何と言ってもデビット・リンドレーの選んだカメラマンなのですから!もちろん、ジャクソン・ブラウンのコンサートの時もフォトパスを貰えましたし、アサイラムレコード関係でしたら、誰のコンサートでも撮らせてもらえました。しかも、大きなアリーナ等のコンサートでは、一般の写真家は最初の3曲だけしか写真を撮ってはいけないのが普通なのですが、私のパスはオールエリアアクセスの物で、写真は何時でも何処でも撮って良いものでしたし、バックステージでも何処でも入る事が出来るものでした。ジョー・ウォルシュのコンサートをLAフォーラムで撮っていて、ふと、横を見ると、そこにヘンリー・ディルツが居たこともありました。

こうやって撮った写真は、現像所から上がって来ると、アーティストとか、そのマネージメントとアポイントメントを取り、見せに行きます。そこで選ばれたスライド1枚に尽き、その当時では$60.00が支払われました。大体のアーティストは10枚以上は選んでくれましたので、1晩のコンサートで平均$600.00の収入となっていた訳です。因みに、この頃の日本企業の駐在員の平均的な給料は、住宅手当や車代とかを除くと月$2,000.00から$2,500.00くらいだったはずです。LAの駐在員達の住宅の家賃は月$120.00前後でした。
デビットの様なアルバムカバーとポスターに使われると、最低でも$1,500.00にはなりましたし、しかも、これらのスライドは全て貸し出すだけで、所有権は自分にあります。
これは日本とは全く違います。日本のレコード会社は、写真家に対して、基本的に「お前の写真を使ってあげているのだぞ」という態度で接しています。又、そう言うのに文句を言わず、只でもやってしまう写真家が沢山居たようでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

この文化の違いの為に、ジョン・ネプチューンがLAでレコーディングをやり、そのトレードショットとカバーを日本の某レコード会社の為に撮った時には、思いっきり揉めました。

私は当然貸し出し式で、トレードショットとか、カバーのインサート用の写真は1カットにつき$60.00で、カバーは最低$1,500.00と言ったLAでの一般的なレートに基づいて請求書を出しましたところ、プロデューサーが、「全部で5万円しか予算が無い。それで我慢しろ!そして全て買取だ!」って言うではないですか。「冗談じゃない、インサート用のみでも15枚以上有って、それだけでも$900.00ですよ。何を言ってるのですか?」って言いましたが、全然聞く耳を持たないのです。そこで、そのプロデューサーの前で、スライドを手で握り締めてグチャグチャにして、ゴミ箱に捨ててやりました。

これにはそのプロデューサーも真っ青になっていましたよ!何しろ、そのアルバムに参加したミュージシャン全員をもう一度集めることなど不可能でしたから。それに、締め切りが迫っていて、カバーも間に合いません。又、彼の言うような値段で引き受けるような写真家は、アメリカには存在しませんでしたので。

実は、田島さんから、「日本の仕事をやる時には買取が常なので、デュープを作っておいたほうが良いよ。」と忠告を頂いていましたので、そこで、捨ててやったスライドは全てデュープであって、それ以外にちゃんとオリジナルを保管してありました。

とにかく、これにはジョン・ネプチューンもびっくりで、彼がプロデューサーに掛け合ってくれて、結局は全部で10万円で買取にされてしまいましたが、ジョンとは友達でしたのと、私にとってもこの仕事は大切なものでしたので、それで引き受けました。
あの某レコード会社のプロデューサーは流石にもう引退しているでしょうけど、恐らく今でも私の事を良く思っていないと思いますよ。<続く>